- どんな環境で育ったのか?
- どんな生き様を歩いてきたのか?
- どうしてヒット曲を生み出せるのか?
優さんって、どうして心に刺さる歌詞を書けるのかな?
高橋優の自伝本を読んでみると、なぜ心に刺さる歌詞を書けるのか見えてくるよ!
秋田が生んだスター「高橋優」の生き様が、この先にある
優さんの幼少期からメジャーデビューするまでの紆余曲折な物語を振り返ると、心に刺さる歌詞の秘密が見えてきます。
高橋優の自伝本「Mr.Complex Man」を読むと見えてくる、ヒット曲を生み出せる理由を考察します。
秋田県横手市出身のシンガーソングライター
高橋優は音楽活動を中心にCMやTVドラマ・映画など、幅広いメディアで活躍されているシンガーソングライターです。
2020年7月21日に、めでたくメジャーデビュー10周年を迎えました。
メジャーデビュー10周年という節目の年に、アミューズを退所して「新しい一歩」を踏み出しました。
2020年11月現在では、シングルは20枚、アルバムは7枚をリリースしています。各アルバムはすべてオリコンチャートTOP10を記録!
毎年のようにライブツアーを行い、ライブ会場がホール・アリーナでもソールドアウトするほど、年々ファンは増加しています。
通勤中に、優さんのグッズを身に付けた人を見かけたよ!
飛ぶ鳥も落とす勢いの人気だよね!
そんな輝かしい活躍を魅せる高橋優だが、幼少時代からメジャーデビューするまでの過去を振り返ると、紆余曲折した道を歩いてきたことが分かります。
インディーズ時代からすでに、
- 駱駝
- メロディ
- 誰もいない台所
のような知る人ぞ知る名曲を生んでいた高橋優でさえ、メジャーデビューするまでに約8年もかかりました※。
- 大学時代(4年)+札幌路上時代(2年)+上京~メジャーデビュー(2年)
高橋優の才能を見抜いてメジャーデビューに導いたのは、とある一人のチーフマネージャでした。
今回は2016年12月26日に発売した自身初の自伝本「Mr.Complex Man」をもとに、心に刺さる歌詞の秘密を考察します。
自伝本の320ページに及ぶストーリーをギュッと10,000文字に凝縮して、高橋優の紆余曲折な人生を一緒に振り返っていこう。
画面に全集中常中でお願いします!
始めは高橋優が闇を抱えていた幼少期のお話です。
【小学時代】自由帳に書いた日記が曲作りになる
高橋優(下記より「優さん」と記述)は、1983年12月26日に秋田県横手市(山内村)という、山奥のほうで生まれました。
あなたは横手市といえば、何を思い浮かべますか?
横手市は豪雪地帯の場所にあって、冬の風物詩「横手かまくら祭り」が毎年開催されている雪祭りとして有名ですよね。
優さんが生まれた山内村※は、「村の中に世界で一番たくさんある村」としてメディアにも取り上げられたこともあります。
- 山内村は現在、横手市と合併しています。
家から隣りの家まで200メートルくらい距離があって、まわりには山がポツンポツンと集落がありました。
本著では「となりのトトロのような場所を想像してもらえば分かりやすい」と語っています。
山深い場所で過ごした優さんの幼少期は、コミュニケーションを取ることが苦手で内向的な少年でした。
算数は規則性を見つけると効率がいい
優さんは算数が好きで、大学まで成績もよかったそうです。社会とか国語のような暗記モノは、一つひとつ覚えないといけないので規則性がありません。
しかし、算数とか数学は規則性を一つ覚えると、その公式に当てはめるとことで答えを導くことができます。どれだけ複雑な計算式でも、簡単にシンプル化できるところが好きなんだそうです。
たとえば、こういう複雑な計算式も因数分解を使うことで、簡単に答えを導き出すことができます。
111×99=(100+1)×(100-1)=10000-1=9999
曲を書く時も物事の規則性とか、何かの公式に当てはめて書くこともあります。
たとえば、恋愛の場合では「彼氏が振っちゃうパターン」「浮気パターン」など、浮気したら「こういう未来が待ってるよね」と先読みします。
そこで言いそうなセリフを曲に持っていくのです。
「ある出来事が起こると、こういうことが起きる」
ということを意識せずにやっているかもしれない、と本著で語っています。
優さんはきっと想像力が豊かなんだと分かるね!
いじめる奴にも抱えているものがある
優さんは「小学校は行くのがすっごく嫌だった」と語っています。
クラスの中で、優さんだけ誕生日が離れていて「あと半年間も一個下まんまの人間が同じ教室にいるんですか?」と先生に言われました。
そういう小さいキッカケから、女子からのいじめが始まります。
- 木の枝で叩かれる。
- 腹が弱くて、よくトイレに行くとバカにされる。
- 絵の具を食わされる。
- 買ったばかりのお気に入りの傘にブサブサと穴を開けられる。
入学早々からいじめられて精神を病んでしまうこともあったけど、身体はすこぶる元気だったので、風邪で休みたくても休めませんでした。
学校を休むことはなく「学校に行きたくない」と言ったこともない。
親には心配かけないように、食卓では「こんな嬉しいことがあった」と嘘を付いていました。
いじめのエピソード、曲で聴いたことがあるような気がする。
アルバム「BREAK MY SCIENCE」に収録されている一曲「CANDY」の歌詞に書かれているよ!
知る人ぞ知る名曲「CANDY」に書かれた歌詞は、いじめられた幼少期のことを書いています。
しかし、いじめてきた女子より身長が伸びていったり、ガタイが良くなったことで暗黒時代が始まります。
小学3年生からいじめられる側からいじめる側に回りました。いじめた子への復讐です。
優さんは暗黒時代を経験して、本書ではこのように語っています。
怒りの矛先を人にするのは簡単だけど、後味がいいわけではありません。叩いた自分の拳も痛いので、良いことは何一つも生まれません。憎しみとか堕落をほっとくと、人はどんどんダメになります。
そんな暗黒時代の中で、心の支えになったのは日記を書くためのノートでした。
自分を癒やしてくれるものやストレス解消できるものを見つけて、腐らないように心がけることが大事!
自由帳に書いた日記が心の支えになる
優さんは小学1年生から書き始めたノートに、現実と理想を埋め合わせるように書いていました。
- 「テストで悪い点数をとった」のように、現実に起きたことを書く。
- 「いい点数をとって、親が喜んでくれた」のように、現実には起こっていないことを書く。
理想のエピソードを書くと、ホッとする自分がいたんだそう。
現実には起こっていないことも書いていたので、人に見られるのが恥ずかしくて、ノートに書くたびに捨てていました。
毎日、日記を書くことが心の支えになって、大学に入ってもずっと書き続けたといいます。
この日記がゆくゆく曲作りになるのです。
小学生に書いたものは、ほとんど妄想でした。
高校生からミュージシャンが書いている殴り書きのようなものになったんだって!
【中学時代】高橋優、生徒会長になる
暗黒時代を過ごした優さんは、中学生になってから、一気に花が咲いて社交的になっていきます。
内向的な少年でしたが、陸上を始めたり、生徒会長するようになったのです。
自分から立ち向かう勇気のようなものが芽生え、友達がギューンと増えて、大親友もできたといいます。
人として変わりたいと考えると、まわりの環境も変わっていくのですね。
初めて立ったステージ
優さんは中学3年生のとき、地元の中学校の学園祭で、GLAYのコピーバンドを組んで歌うことになります。
当時はGLAYやL’Arc~en~Cielが流行した影響を受けて、クラスの出し物でGLAYのコピーバンドすることに。
「ボーカル誰にする?」
ボーカルを決めるために、みんなでカラオケに行きます。
その中で、優さんは結構いい点数を取って「優くん歌ってよ」と誘われて、初のステージで歌うことになりました。
学校祭のステージについて、優さんは「ステージ的には失敗で、上手に歌えなかったけど、一番気持ちいい瞬間だった」と述べています。
「またあそこに立ってみたい!またあれやりたい!」
という思いがすごい強くなりました。
優さんは原点を忘れそうになるときは、学園祭のステージに立った瞬間を思い出すと語っています。
中学校の学園祭は、優さんの大切な原点なんだね!
先生から生徒会長を勧められる
優さんは中学3年生のとき、生徒会長になります。
思春期は横目で「女子にモテたい」と思い始めて、勉強を頑張ったり、体育や部活でかっこいい姿を見せたいと思うものです。
優さんは「モテたらいいな」と思うことはあったそうですが、全然モテなかったそうです。
それよりは「モテたい」という思いがあって、練習したら上達したり、勉強したら成績が上がり、やればできる精神が芽生え始めます。
この頃から気持ちが前向きになったこともあって、自分で生徒会長に立候補します。
きっかけは学校の先生から、高校に行くなら内申書に何かトピックを書いたほうがいいと言われます。
トピックの一つに、
「生徒会長とかいいじゃん」
と言われて、その助言をそのままに従って立候補することになります。
その後、生徒会長の挨拶でアントニオ猪木のモノマネ「元気ですかー!」とやって、100票以上の差をつけて前代未聞のバカ生徒会長が誕生しました。
男子はウケてくれたけど、真面目な女子は冷たい目だったんだって。
僕なら爆笑してそう。笑
行動だけが現実になる
優さんは小学校と中学校では、真逆の少年になります。内向的だった少年が社交的になっていって、自分ひとりで思い込んでも変わらないと気づいたそうです。
思い込みとは、100個の中の1個または2個で、残りの98個は絶対に行動によって起きています。
つまり、行動だけが現実。これはBRAHMANのTOSHI-LOWさんが仰っていた言葉で、一人で思い込んでも現実は変わりません。
自ら生徒会長に立候補したり、ステージで歌ったり、進んで行動できたことでまわりの目線もきっと変わっていったんだと思います。
優さんが思い込んでいたものを「行動に移してみよう」と思えたのは、いいきっかけをもらえたから。
- 先生に「生徒会長やってみたら?」と言ってくれた
- コピーバンドで「歌ってよ」と誘ってくれた
行動を引き起こしてくれた人のおかげで、「出会いにだけは恵まれている」とたぶん永遠に言い続けると語っています。
過去のライブで「僕は真に受けやすい」と言っていたけど、中学生の頃からそうだったんだね!
【高校時代】陸上から音楽の道を歩く
優さんは湯沢市という場所にある高校に通い始め、住んでいた山内村から湯沢市まで、途中の横手駅を乗り継いで通っていました。
2年生までは電車通学、3年生からは自転車通学になり、3時間弱かかっていたそうです。
実際にGoogleMapでルートを調べてみました。
正確ではないと思いますが、自動車で走らせても30分もかかるんですね、、
優さんパワフルすぎる…
湯沢市の高校で通うことになるのですが、心のなかで葛藤したり、音楽の道を突き進むキッカケに出会います。
陸上に日々奮闘する
優さんは中学生のときから陸上部で、800メートル走で全県大会に行くほど、走ることにのめり込んでいました。
高校になると外から違うメンツになって、「俺が一番だぜ」みたいに気の強い人もいて、そんな人に勝ちたいと思って練習する日々。
部活で練習するだけではなく、自分でメニューを考えて走るほど、ストイックな優さんに、悲劇が起きてしまいます。
大会にめがけて練習しすぎて亀裂骨折してしまい、医者からこのように言われます。
「あまり歩かないほうがいい」
それでも優さんは、まわりには内緒で練習しまくって大会に出た結果、800メートル走の途中で転倒してしまい、担架に運ばれることになりました。
医者には「だから走るなって言っただろう」と怒られて、まわりにバレてしまい、高校1年生で陸上部をやめることになったのです。
走ることを奪われた優さんは、音楽にすがるでもなく不良のふりをして誰かとつるんで、自暴自棄になってしまいます。
一歩を踏み出せない苛立ちが家族に向かってしまい、優さんは「ダメ人間だった」と赤裸々に語られています。
踏み出したい気持ちはあるのにキッカケは来ないし、キッカケの作り方が分からなくてイラッとしてしまうような反抗期ってあるよね。
B’zのライブが音楽のほうへ駆り立てるキッカケになる
優さんは走ることを奪われて自暴自棄になった高校1年生のとき、大好きなB’zのチケットをとります。
B’zは小学生の頃からずっと好きで、「LOOSE」というアルバムを勇気出して買って、それを毎朝毎晩聴くのが楽しみでした。
B’zのチケットは1枚しかとれなかったため、生まれて初めてのライブは、一人で参戦することに。
ライブの最後のMCで稲葉さんが言います。
「つらいこともあるし嫌なこともあるけど、負けずにいこう」
そして、「Brotherhood」という曲のイントロが流れて、優さんはボロボロに泣いて大声で歌っていました。
優さんは感動した心のどこかで「あそこに立つって、どんな気持ちなんだろう」と思い始めます。
「あそこに立ちたい」
そんな感情が忘れられなくて、自分を音楽のほうに駆り立てる一つのきっかけになったのです。
優さんがコンサートで泣いたのは、これ1回きりだそう!
オリジナルの卒業ソングを書く
優さんは高校1年生のとき、CDショップに行って、
- Headwayのギター
- ギタースタンド
- 教則本
- ピック
- チューナー
など、19点セットで8,000円みたいな安いギターを買います。
当時は家で歌うとまわりに迷惑かかるので、家族が寝たあとにそっとギターを持って出かけて、家の近くにあった山で歌っていました。
歌うことが楽しくて、気づくと2時間近く歌っていました。
その後、クラスのなかでもギターが上手いHくんと組んで、卒業ソングを書くことになります。
タイトルは「Song for A」。クラスがA組で、担任の名前がエイコという名前だったから。
卒業式の2日前と当日に、優さんが書いた曲をクラスのみんなが歌ってくれたんだそうです。
優さんはこのときのエピソードについて、自分が書いた歌を自分以外の人が歌う喜びとか嬉しさを感じたと語っています。
高校卒業後は札幌の大学に進学して、優さんの路上ライブ時代が始まります。
東京ではなく札幌の大学を選んだ最大の理由は、"田舎者は東京に行く"という考え方が嫌で、「北上してやる!」と思ったんだって!笑
【大学時代】狸小路で路上ライブを始める
札幌への引っ越しはご両親に協力してもらって、大きい車に積めて、カーフェリーを経由して、ほぼひと晩かけて札幌まで行きました。
ほんとに優しいご両親だよね!
優さんの住まいはアパート・ワンルーム7畳くらいの狭い部屋で、風呂トイレ一緒のユニットバスという間取でした。
家の近くには雑貨やお菓子がいっぱい売っているお店「ヴィレッジヴァンガード」がありました。
「なになに?遊べる本屋?どういうこと!?」
って目をキラキラさせて通って、毎日が楽しかったと語っています。
狸小路で人生初の路上ライブ
優さんは部屋の中で歌って苦情が来て住めなくなったら身も蓋もないから、ギターを持って外へ飛び出します。
札幌は都会だから、きっとどこかで路上ライブのできる場所があるはずだと。
しかし、札幌のことは右も左も分からなくて、なんとなくさまよいながら歩いていると、お店がいっぱい並んでいる大通りを見つけます。
その場所は"狸小路"という路上ライブでは有名な場所で、すでに午後の8時を回ってシャッターが降りている様子。
すでに歌っている人も一人いたので、「ここは路上で歌ってもいいんだな」と思い、怒られたらやめるつもりで歌うことを決めます。これが人生初の路上ライブでした。
狸小路は1丁目から6丁目まであり、
- 2丁目の呉服屋さとう
- 4丁目の石井スポーツ
で路上ライブをやっていました。
今でも札幌に行くと、自分の原点の場所に必ず行くと語っています。
狸小路で歌うと決めてからの行動が早いね!
「怒られたらやめればいい」という思考を見習いたい!
路上ライブで立ち止まった一人の女の子
狸小路で路上ライブを始めて、最初に立ち止まってくれた一人の女の子がいました。
その女の子は驚いたような表情で聴いたあと、「いつもここでやっていますか?」と聞きます。
優さんはあまりに嬉しくて、このように返します。
「やってます」
って嘘を付くと、女の子から「来週もここに来たら会えますか?」と聞きます。
「会えます」
って嘘を付きます。笑
嘘を本当のことにするために、それから毎週決まった時間で路上ライブをするようになるのです。
その女の子は次の週には友達を連れて、「ほらね、声でかいでしょ?」ってクスクス笑っているのが、全部嬉しい感じに聞こえたと語っています。
当時はノートで交換日記のようなものをつくって、立ち止まってくれた人に自由に書いてもらっていたんだって!
路上時代からファンとのつながりを大切にしていたんだね!
就職活動せずに音楽をやる
優さんは札幌で路上ライブを始めてから大学へほとんど行かず、歌ばっかり歌っていました。
当然、成績は落ちていって先生にも呆れて、まわりから「お前、何やってんだよ」という目で見られます。
大学3年生になると、まわりが就職活動するなかで「就職せずに歌いたい」と決めたときも「大丈夫?」という感じ。
優さんは大学に行って"就職することが当たり前"と洗脳されることが怖かったのです。
まわりの常識に耳を傾けず、自分のやりたいことを優先して突き進むと決めた、優さんには熱い想いがありました。
大学卒業後は映画館でバイトしながら歌をやって、生計を立てていくことになります。
日本では、人と違うことは悪いことという風潮があるよね。
まわりと合わせないといじめの対象になりがちだけど、人と違うことは価値だと思う。
【インディーズ時代】東京メトロCMソング「福笑い」が生まれる
大学卒業後は「フロンティア」という映画館で、アルバイトを2年間にわたって務めることになります。
目の前にいる人を放っておけない世話好きな性格で、いつの間にか「起こる人になっていた」といいます。
- だらしない姿勢で立つ後輩を見つけたら「お客さんが見たらどう思う?」と注意する
- スタッフと「足を運んでくださったお客様に何か一つ喜んでもらおうよ」と熱く語る
責任感が強くてみっちり仕込まれた接客ノウハウで、最終的にはマネージャーまで任されることになりました。
映画館でアルバイトした経験について、素晴らしいコメントを残しています。
ライブでも、映画館での接客と同じように1対1でお客さんに向き合いたいと思っているので。せっかく時間を割いて会場に足を運んでいただいたからには、自分が出来る最高のパフォーマンスを見せたい。そこにかかわるスタッフも、あの時みんなで一緒に映画館を盛り上げようとしたスタッフたちと同じ『チーム』なんだって思っています
引用:シンガーソングライター 高橋 優さん | アルキタ
一人ひとりのお客様と向き合った経験が、ファンを魅了する歌詞作りに活きていると思う!
優さんは映画館でアルバイトするかたわらで、路上やライブハウスで歌い続けていました。
しかし、芸能プロダクション「アミューズ」にスカウトされるまでの2年間には、さまざまな葛藤があったのです。
あと1年で何も出なければ秋田に帰る
札幌で路上ライブしながら歌っていくことを決めたあと、自主制作盤を出したり、ワンマンライブして音楽に注ぐ日々を過ごします。
そういうなかで、上京する1年前にお婆ちゃんがお亡くなり、それを聞いた優さんはすぐさま秋田へ帰ります。
優さんにとって、お婆ちゃんは親と同じくらい大切な存在でした。
葬式のあと、高橋家の将来について会議になり、話題は優さんの現状と将来の仕事の話になるのです。
- 「まだ歌なんか歌っているのか?」
- 「いつまでも何もならない歌なんか歌ってどうするんだ」
みたいなことを言われているような気がしたそうです。
ボロボロに泣きながら"あと1年で何も出なければ秋田に帰る"ことを告げて、家族に「本当に1年か?」とハッパをかけられます。
優さんは家族のことが大好きだから「俺がしっかりしなきゃ」と、自分のためにも残り1年のリミットを決めました。
覚悟を決めてからお客さんが増え始めたんだって!
自分なりの覚悟とか気持ちって、相手に伝わるものだと思う。
高橋優、アミューズと契約する
映画館でアルバイトしながら音楽で生活するなかで、ライブバーからmixiでダイレクトメッセージが届きます。
その内容は、注目のバンドのライブで出演するオープニングアクトの人が体調を崩したから代わりに出てほしい、というもの。
優さんは「出ます!」と即答して、ライブのオープニングアクトとして出演することが決まりました。
そのライブに出演する日の朝に、ずっとお婆ちゃんと手を握っている夢を見たといいます。まるで「ライブが上手くいきますように」と見守ってくれているかのように、お婆ちゃんの手の感触があったそうです。
ライブで歌い終わると、現在のチーフマネージャ「山口雄一」氏の目に留まりスカウトされます。
芸能事務所アミューズに所属することが決まり、2008年から活動拠点を東京に移します。プロのミュージシャンとして活動が始まりました。
優さんは雄一氏にスカウトされるまで、東京に行きたいという気持ちはなかったらしいよ!
目の前の人、目の前の課題と常に向き合っていたんだね!
世界を変えるために、今日何をしますか?
2008年のとき、優さんがメジャーデビューするきっかけになる、クリエイター箭内道彦氏と出会います。
箭内氏が監督したミュージックビデオは多岐にわたります。
- こどものうた
- 駱駝
- 福笑い
- 誰もいない台所
- ルポルタージュ
当時の優さんは、ライブを含む仕事時はコンタクトレンズ、プライベートは黒縁メガネと使い分けていました。
これを知った箭内氏は「メガネをかけているプライベートの高橋優がいい」ということで、高橋優といえば黒縁メガネという構図が生まれたのです。
高橋優=メガネというイメージの生み親は箭内氏だったんだね。
芸能事務所「アミューズ」に所属してから、精力的に音楽活動していくうちに優さんの名前が世間に広まっていきます。
そんななか、2010年の元旦に放送されたラジオ「風とロック NEW YEAR FES 渋谷」の公開生放送を務めることになります。
そのラジオ番組内でメッセージテーマを募集しました。
世界を変えるために、今日何をしますか?
数多くのメッセージが届く中、都内の大学で英語を学ぶ女性のリスナーから、一通のお便りが届きます。
「私は日々、自分と周りの人で一杯いっぱいだけど、自分が毎日笑って元気を周りに与えてみんなが笑顔になれたら、それがだんだん伝染していけば世界がだんだん良くなると思っていて『共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う』ので笑顔が一番大事だと思っている」
このメッセージに出会い、箭内氏から即興で一曲を披露することを命じられます。
即興で作成した曲は、番組のエンディングで披露することになり、その曲が福笑いの原形になったのです。
当時は1コ―ラスしかできておらず、曲名もありませんでした。ラジオ終了後、福笑いが完成した後にさまざまなメディアが取り上げたり、快挙を達成していきました。
- 東京メトロCMソングに抜擢
- 米ニューヨーク・タイムズ紙に福笑いのメッセージ広告が掲載
- 2011年上半期ラジオリクエストチャート邦楽の部門で1位を獲得
そして2010年7月、紆余曲折なインディーズ時代を乗り越えて、待望のメジャーデビューを果たしました。
福笑いを聴いただけで笑顔になれた人は多いはず!
【考察】一人ひとりの悩みに寄り添う歌詞に魅了される
優さんの幼少期からメジャーデビューまでの紆余曲折な人生を振り返ってきました。
ここまで読んたあなたは、
- なぜ心に刺さる曲を作れるのか?
- なぜメジャーデビューできたのか?
なんとなく分かったのではないでしょうか?
僕はメジャーデビューを果たすまでに過ごした時間のなかで、いくつか重要なポイントがあったように感じます。
(ここから僕の考察になるので、温かく見守っていただければ幸いです、、)
ざっとまとめると、このように感じました。
- 紆余曲折な人生を歩んだから、不安や葛藤する人の気持ちが分かる
- 意識と行動で、出会いやキッカケの運を引き寄せる
- 言われたことを真に受ける素直さを持っている
- どんな困難にも立ち向かう強い覚悟を持っている
- 他人の意見より「自分はどうしたいのか?」を考えている
運とは人の意思や努力ではどうしようもできない巡り合わせで起きるのではなく、意識と行動によって引き寄せることができます。
たとえば、脱サラしたいと願ってもずっと家で引きこもっては何もしない、それでは夢のまた夢だよね。
優さんは「あと1年で何も出なければ秋田に帰る」と覚悟を決めることで意識が変わり、行動率に反映されて、チャンスも見逃しませんでした。
また優さんの歌詞には、内向的な幼少期から今日までを過ごした経験が歌詞を書くもとになっている曲が多く、歌を届けたい人物像が明確なので、同じような悩みを持つ人に心がささると思うのです。
高橋優の自伝本では、本記事では語っていないことやメジャーデビュー後のエピソードも語られているので、あなたも読んで優さんの生き様をチェックしてみてくださいね!
僕は「高橋優自伝」を読んでみて、自伝本を出版できるほどの密度の濃い時間を過ごしていないことに痛感しました。
優さんが大切にしている思考「行動だけが現実になる」に倣って、僕も行動していきたいです。
ここまで読んでくれてありがとう!
優さんの生き様を赤裸々に語る「高橋優自伝」をぜひチェックしてみてね!